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幼年時代をフランス・ボルドーで過ごし、その後、当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪い事に憤りを感じ、自身での輸入販売を開始した道上の幼年時代、フランス時代の話、また、武道家である父「道上伯」への想い、日本へ帰国後の生活、を独り言としておおくりします。

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愚息の独り言

【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第9話 セイロン」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第9話 セイロン」

2013年10月18日



船はセイロン・コロンボ港(現スリランカ)に向かう。

昔海賊が出たと言う島々をくぐり、大海原に出た。やはり海は怖い。
その先には何があるのだろうかと不安になる。

自分がいかに心配性かと言う事に気が付く。
いや、昔の事で情報が無さ過ぎたせいかもしれない。

今は世界中の若者が同じ格好をして、同じ音楽を聴いて、同じ携帯を持つ。
考えている事もきっと同じなんだろう・・・?どんな情報でもいち早く知ることができる。 そういった事柄が逆に未知の国である日本が外国人を魅了している昨今です。

東京のタクシーはカーナビが有っても目的地に辿り着けない。
ましてや外国人にとって日本ほど分かりくい国は無い。
経済大国の日本。世界最大のメガシティー東京(4000万商圏)、
地図を持って自動車を運転?スマホの方が余程正確だ。

道路の標識が分かりにくい。番地が書いていない所が多い。

世界中を飛び回っている外国人がびっくりするのが日本だ!
それはともかくこれから到着する地は、僕にとって別の惑星だ。
セイロン紅茶ぐらいしか聞いた事がない。

港には江戸時代のような荷揚げ夫がいて、重そうな荷物をいくつも抱えて往来している。凄い力持ちだ。小兵(こひょう)だが相撲取りとしてデビュー出来るのではないかと思ってしまったほどだ。

当時日本の相撲界は決して大きい人ばかりではなかった。
吉葉山、鏡里、栃錦、初代若乃花など体が大きくなくても活躍した力士も多かった。
初代若乃花も荷揚げをやっていた。だから足腰がしっかりしていた。

そのセイロン・コロンボ港の税関を一歩出ると色んな人がお金を恵んでくれと縋(すが)りついてくる。足が胡坐をかいた状態でくっ付いたままの人、頭から脳みそが飛び出ている人(!)。困ってしまった。

町を歩いているとやたらとサファイヤ、ルビーが安い値段で売られている。
闇で両替をしたお金でサファイヤやルビーを買って大金持ちに成った人は沢山いる。今ほど高くないし今ほど偽物も無かった。

偽物を作るより本物を掘り当てる方がかえって安あがりなのかもしれない。
しかもサファイヤ、ルビーを買うとキャッツアイなどおまけで付いてきた。
バブルの頃キャッツアイは大きいものだと何千万円もするものもあった。
今では二束三文でしょうが。

世界でジュエリー(貴石)として認められているのはダイヤ、エメラルド、ルビー、サファイヤ、強いて言えば南洋玉(養殖でない、天然真珠)も入る。
それ以外は半貴石としてしか認められず、アレキサンドライトの様に需要と供給によって大きく値段が変わる物が多い。

そういった事も知らず町を歩き、帰りの税関で捕まっている日本人がいた。
あ!3等の大塚さんだ!いつもベージュの半パンツに下駄を履いている早稲田の大学生。まるでボーイスカウトの半ズボン姿に下駄?
顔も下駄のような顔をした本当に人柄の良い優しい人です。

幼稚園でアルバイトをしていて園児と一緒に
ちょう~ちょ♪ちょうちょ菜の葉にとまれと両手を蝶々の様に振ると父兄が笑い転げるらしい。

僕はこの人が大好きでいつも彼にくっついていたのがちょっとした隙に!
5万円を元手に闇両替を何カ国かの通貨と繰り返す事で27万円にまでなっていたお金を腹巻に隠していたのがばれたらしく、真っ青な顔をしていた。

それが没収されるとマルセイユ(最終港)から日本へ強制送還される。
マルセイユでどれだけお金を持っているか調べられ、
一銭も無いとわかると当時は強制送還か外人部隊でした。

当時強制送還ともなれば貨物船の物置にぶちこまれて4週間過ごすことになる。
当然食事など出ないから缶詰と水を持ち込んで凌ぐようになります。

外人部隊に入隊するとフランス国籍がもらえます。もらえると言っても、アルジェリア戦争の最前線に送られ九死に一生を得て戻ってこられた者だけの話です。

日本領事館に頼んで領事館員に来てもらったが結構揉めていた。
それに当時としては大金です。
ほぼ没収が決定していたところ日本領事館員が5時間ほど頑張ってくれてどうにかなったようでした。

船はその後すぐに出発。冷や汗もんでした。

日本のような品の良い税関員は海外で見たことがありません。
渡航者は目立つ格好はタブーです。
僕は今でも捕まるような物は一切持っていませんが、
面倒くさくなるのであたかもいろんな国へ行きましたというような、
べたべた過去の渡航先のラベルが貼られているようなかばんは使わない。 

パリの税関でムッシュ!ムッシュ!と呼ばれても知らないふり、無視して歩く。
すると僕の前に回り込んできてムッシュ!セ ブゥ!(貴方だ)と言われたりする。
僕は目線をその税関員の頭から足元へ、足元から頭へと移動させ、
何を言っているの?このアンちゃん、というような顔をして英語訛りで言います。

オ!パルドンムッシュ、ジュ・ヌ・コンプランパ、ラングフランセーズ(フランス語が分からない) イタリアではフランス語でまくし立てます(フランス人に弱い)。

とにかくしょっちゅう外国旅行をしているように思われると
やたらと調べられる場合がよくあるのです。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第8話 無機質なシンガポール」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第8話 無機質なシンガポール」

2013年10月11日



シンガポール到着。

この国ほど、この旅行で印象の薄かったところも珍しい。
実は現在のシンガポールも個人的には好きになれません。
文化の香りが全く感じられない。

以前香港編で登場した中国人のおばさんに、ここでもまた御馳走になったし香港タイガーバームガーデンのミニチュア版の様なものも在ったのだが印象がほとんどなかった。不思議です。

もう50年以上(?)前にもなるでしょうか。
客家(「はっか」中国の種族のひとつ)のリー・クアンユー (元シンガポール首相)がやはり客家であったタイガーバームの「ホー」一族をシンガポールに招聘し、その時香港の土地の値段は暴落。
その代わりシンガポールにインフラが整ったと言われています。

40年前、アジアの中心は日本だと思っていたが、多くの欧米のアジア代表支社がシンガポールに移ってしまった。生産力と裏腹に中継的な役割を担うように。
だからでしょうか、何か人工的な、文化の香りがしない街としか感じられない。
そう思うのは僕だけなのでしょうか?

今でもレストランでは中身の感じられない創作料理が多いように思う。
40年前だとシャングリラ・ホテルのスイートルームが2万円で泊まれたのに今はその10倍でも泊まれない。

ただ当時は東京の法務省木造版の様な建物が多く、旧植民地時代を想わせる物も多くあった。今でも少し残っているのが、唯一の救いのような気がする。

食は文化の反映又その継続性による物だと思っていました。
だからここ20数年前は中国本土のレストランで美味しいと思った事は無かった。
腕の立つ料理人は文化大革命で身の危険を感じ香港へ逃げた。
勿論特に優秀なコックは蒋介石が台湾に連れて行った。
さらにその中の数人が日本に来た。だから日本の中華料理は世界一だった。
ただ親が偉大な料理人だから子供もそうかというと、そうはいかない。
日本の中華は昔に比べると味が落ちたと思う。

香港では昔何処で何を食べても美味しかった。
しかし最近は中国本土に引き抜かれるコックが多いと聞く。
中国本土に味の分かる中国人がどれ位いるのだろうか?
シンガポールに味の分かる人がどの位いるのだろうか?

世界の常識では中華料理が世界一と言われている。
何と種類にして400以上の料理が有るらしい。
第二位がフランス料理でその種類は100ほど。
何を基準に評価されているのかがよく分からないが。
最近では日本料理に人気が移っているようだ。

戦前の上海は中国全土の約83%を占める経済都市だった。
さぞかし美味しい料理があったのでしょう!
僕の父は戦前上海の(現交通大学の中にあった)東亜同文書院で4年間教鞭をとっていました。その昔孫文なども教えていた学校だった。

その当時父は世界一栄えた大都市のフランス租界へ行っては美味しいワインを飲んでいたそうだ。当時フランス人のコックが上海に来ると母国の3倍の給料を貰っていたそうな・・・。(当時上海の物価はフランスの10分の一以下だったから、上海ではとんでもない金額)そんな中国からも大勢がシンガポールに逃げるように移民したそうです。

季節の無い国だからでしょうか、 
料理にきめ細やかさが無いように思えてしょうがない。

それとも 香港、ベトナムと衝撃が強過ぎたのだろうか? 
兎に角シンガポールの記憶がほとんど無い。

そのシンガポールを出ると船はコロンボ(セイロン、現スリランカ)に向かう。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第7話 ベトナム」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第7話 ベトナム」

2013年10月4日



海の様な広い川幅が徐々に狭まってくる朝もやの中、サイゴンの街が突如現れた。
海からサイゴン到着までずいぶんと長かった。

あの5歳の可愛いノンちゃんがここサイゴンで降りるというのをその時突然聞いた。彼女は在ベトナム大使の娘だそうだ。お母様は若く美しい方でした。ご主人もきっときっとお若いエリートだったんでしょう。赴任したばかりだったのでしょうか?挨拶はしていただいたが残念ながら公邸へのご招待はありませんでした。

ノンちゃんの兄上のような10代半ばの青年が(あるいは大使館の人?)サイゴン市内を案内してくれた。よくしゃべるお兄さんで、心遣いは有り難かったがガイドブックを買えば必要なかったような気も?

町のあちこちで祀られていた仏教の僧侶は、なんでも昨年ガソリンをかぶり焼身自殺を遂げたとかで、当時のゴ・デイン・ジエム大統領が著名なカソリックで、仏教徒が迫害を受けていた事に対する抗議で行ったという。その時数十人の仏教僧がその僧侶を取り囲んで自殺を止めに入る人達を阻止したらしい。

その翌年、新政権となり、ズオン・バン・ミンとグエン・カーンの2人が何度も入れ替わって大統領になった。それにしてもやるときはやるんだなあ~と思いながらも当時の僕にはピンとこなかった。今考えると大変な出来事なのだが、それよりもその焼身自殺をした人間が英雄扱いされている事の方にびっくりしていた。
僕はいつの間にか人の死に対して感情が麻痺してしまっているいやなガキだった。

町は香港もサイゴンも物乞いする子供たちが多く、面倒臭く思えていた。
我々の漁師町は貧しいが物乞いする人はおらず、むしろ食べ物は余っていた。ただサイゴンも食事が美味しかった。物乞いする子供達も美味しそうな物を食べていた。しかも町は埃っぽかったが人は清潔だった。町並みも洋館のようで香港のモダンビルに対して風格の有るフランス式の建物が多かったが、サイゴン陥落時には相当壊されてしまったのだろう。僕はその後何度もベトナムに行ったが昔の町の方が格好良かった。

当時「べトコン」と言う言葉が流行っていた。フランスにもアメリカにも中国にも勝利した民族。38年間(多分)も戦い続けた戦争の専門家ベトナム・コンバット。その北ベトナムを仕切っていた将校には終戦を認めない(情けない日本政府に見切りをつけた?)旧日本兵が多かったと当時は言われていた。その事は日本中、小学生でも知っていた。デマだとしたら相当なもんだ!

フランスのドゴール大統領はホーチミン率いる新しいベトナムを最初に独立国として認めた。サイゴンのベトナム人は皆良い人に見えた。しかしフランスでは逆だった。教室で何か無くなると決まって犯人はベトナム難民の子だった。

いよいよベトナムを離れシンガポールに向かう





【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第6話 さようなら香港、初めての外国。」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第6話 さようなら香港、初めての外国。」

2013年9月27日



香港では何人かの日本人が降りたようだが、降りた人数は少なく、
乗ってくる中国人の数の方が多かった。その香港出航後、異様な光景を目にした。

全身黒ずくめの女性が付き添いと思われる女性の人と一緒に2等のデッキから香港を眺めていた。まるで過去と別れを告げるかのように。
背丈は150cmくらいだろうか。少しスリットの入ったロングスカートから足下が見える。ヒールのある靴を履いているがその足は纏足(てんそく)だった。
その女性は誰も寄せ付けない雰囲気を放っていた。その後二度と姿を見せなかったが、その不気味さはいつまでも記憶に残る光景だった。
(※纏足=てんそく。女性の足を緊縛して成長を止め、小足にする施術。 )

僕の乗った船には無かったが、当時は一般の船には4等船室もあった。
当時フランスまで飛行機で行くと運賃は約24万円だった。船の場合は3等船室が13万5千円、2等船室が22万から30万円、1等船室は50万円以上だった。僕の住んでいた愛媛県の八幡浜では50万円あれば立派な家が買えた。大卒の初任給が1万2千円位の時代だった。今から考えると飛行機代はどんどん安くなり逆に船賃はどんどん高くなっていった。

だから食事の出ない4等とか貨物船旅行というのもあった。
基本的には貨物船の場合6~7万円だったが、船数が少なく中には船内で働きながらなら無料で乗せてくれる場合もあった。しかしこれは密航に近かった。簡単にビザがおりない時代なのでパスポートさえなかなか手に出来なかった。そんな状況で貨物船で働きながら行くという事は手続き無しで行くのに近かった。

このラオス号はフランスの船だから1等、2等、3等の区別はいやらしいくらいはっきりとしていた。ただ、たまに全客のパーテイーとか催し物があった。まずは仮装行列があり、我々仲間は「貫一お宮」をやりました。お宮が途中転げて鬘が取れるという演出を入れたが意味の分からない外国人には受けが悪かった。

ひときわ目立っていたのが船長!白い制服で格好が良いと皆は言う。ガキの僕には何が格好良いのか分からない。ただでっかくてすらっとしているだけだ。姉にダンスを申し込んできた。だが僕が阻んだ。外人に姉を取られてはならない!
僕は非常にやきもち焼きだった。足が長い?バランスが悪い!彫が深い?フランケンシュタインも彫が深い!

一夜明けて昼食後、プールの上に直径40cm位の丸太を置き、丸太に跨った二人が向かい合って枕で相手をプールへ落とすというゲームをやった。1等も2等も3等も全員参加のゲームだ。
最初はフランス人の子供達がやっていた。その勝敗が決まった時、僕にやらないかとフランス人の船員が勧めた。最初断ったが例のフランス語の先生中島さんが、雄峰君やったら、と言うのでやることになった。

相手はフランス人の2~3才歳上の男の子だった。

相手が僕の頭に枕で一撃を食らわした。あたまに来たので思い切り相手の肩を狙って横殴りをしたが空振りをして落ちそうになった。慌ててしっかり丸太にしがみつく。あせった。先ほどの戦いで落ちた坊やの水しぶきで丸太が濡れているので滑りやすい。相手は僕のしがみついているその腕や頭に枕を打ちつけた。何度も何度も。何十人ものフランス人の声援が早くあのガキを落とせと言っているように聞こえる。凄い掛け声だった。日本人の掛け声は聞こえなかった。

僕は無我夢中で丸太にしがみついていた。ある程度時間が経ったので結局引き分けということになった。 僕は恥ずかしいやら格好悪いやら・・・!どうして良いか分からなかった。最悪の一日だった。

僕達の戦いに気を良くしたのか次に大人のフランス人男性二人が跨った。
二人とも最初から枕などそっちのけで丸太にしがみついたまま相手をくすぐる作戦に出た。フランス語でギーリ、ギーリ!(日本語だと「こちょこちょ」という感じ)などと言っていて相手に迫る。これが受けた。おおいに受けた。皆で爆笑!

僕は必死でやったのに結局あんな漫才もどきの前座だったのかと結構ムッとしていたところに、中島さんが来て「雄峰君は諦めなかった。負けるかと思ったがさすが日本人!大和魂を見た!」などと言っていた。もし本当にそう思っていたのならもっと大声で応援してくれても良かったのに。僕は一人でフランス人達と戦っていたように感じていたのに!これが日本人的遠慮なのか、それとも3等の遠慮なのか・・・?
とはいうもののそれ以来僕は更に人気者になった。

船はベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に向かっている。
海からサイゴン川に入った頃、一艘の小船がラオス号に横づけされた。その小船から降りて来たベトナム人とラオス号船長が交代した。きっと現地の人でないとわからない浅瀬などがあるのだろう。それともべトコンでも飛び出してくるのだろうか?

そう、実は当時ベトナム戦争の真っ最中だった!
40kgの装備を持って戦うアメリカ兵と小袋一杯のお米を持って戦うべトコン。
さてどちらが強いのでしょう?歴史上、南北の戦争で南が勝った事は一度も無い。
冬将軍ならぬ北将軍だ!中国・ロシア対アメリカの代理戦争?

そんな怖いところへ向かって我々の船は進む。
地図ではサイゴンは海沿いだと思っていたが、川は曲がりくねっていてなかなか港に到着しない。到着まで半日以上1日近く、相当長くかかった事を覚えている。


PS:
今このメルマガを飛行機の中で読んでいる。 
ボルドーからパリ、パリから羽田に向かう。10月1日の朝6時には羽田だ。
蕎麦か鮨が食いたい。




【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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愚息の独り言「幼年時代の旅行 第5話 香港は変わった」


愚息の独り言
「幼年時代の旅行 第5話 香港は変わった」

2013年9月20日



翌日家族3人で街を歩いているとやたらとチェンジ・チェンジと声をかけられる。若い、といっても30代前半くらいの男がしつこく話しかけてくる。為替の闇取引だ。
ドルをフランス・フランに替え、それをまたドイツ・マルクに替えると元の金額の3倍位のお金になった。意味が分からない。

戦後、ドルを買う時は70数円、ドルを売る時は50数円という変な為替レートだった。ある日アメリカの財務省の人間から日本の財務省に「円とはどういう意味だ?」と聞かれ、「円とは丸のことだ」と答えると、丸は360度だから1ドル360円の固定相場でいこう、ということになったんだそうだ。いい加減なもんだ!

その後今のような変動相場制になったのは、たしか1971年だった。今では1ドル160円以下。当時1フランが75円だったのが今では25円。数十年前1ドルは100円以下、円はデノミをせざるを得ない。そうすると中国、アメリカ経済は崩壊すると思う。そして日本の時代が来る。そう日本が輸出で稼いだ金の殆どがアメリカの国債に変わっていった。

そんな事はさておき、香港の街を歩いていると必ず「マネー・チェンジ!マネー・チェンジ!」といかがわしそうな人達が寄って来る。紺のズボンに明るい柄の半そでのシャツ。連れて行かれる所は決まって袋小路。そのどん詰まりにある家から更に人相の悪いのが階段を降りて来る。僕は心臓がドキドキする。
男はこっちの札を見せろと言う。お札を渡すとその札をくしゃくしゃにしてまた伸ばす。決してすかしたりしてみなかった。

こんなやりとりをする母を見ながら「よくこんな怖い事をするものだな?」と感心した。そういえば日本にいたとき走っている泥棒を追いかけて捕まえた事のある母親だった。若い頃陸上600メートルで日本チャンピオンだったそうだ。
よほど自信が有るのだろう。小学生の時よく、ほうきを持って追っかけられたが怖かった!
実は薙刀(なぎなた)二段だ!

その後は観光用ケーブルカーに乗って丘の上へ行った。きっとあの有名な映画”慕情”の舞台だったのではないかと今では思う場所である。
その丘を下って行くとタイガー・バーム公園がある。気持ちの悪い、悪趣味な動物や昔の人物をかたどった陶器人形のオン・パレードだ。文化大革命の時通貨の代わりに、中国人はタイガーバームを本土から持ち出して香港で換金したそうだ。

そのタイガーバームの「ホー」一族は今ではシンガポールに移り住んでいる。
タイガー・バーム公園はシンガポールにも有る。そのホーの長男と結婚したのがあき子さんという日本人女性だ。ついこの前亡くなったが姪の結婚式にも来てくれた。
彼女はホーの長男と船旅で知り合い結婚したそうだ。船上では色んなドラマが生まれていた。

33日間の船旅だが実際船が動いているのは20日間だ。あとの13日は各港で停泊し、その間乗客は観光をする。そのなかでも香港は1日半と停泊期間が長い。そのいかがわしくも不思議な魅力の香港ともそろそろおさらばだ。出航のドラが鳴り響く。

何処で何を食べても美味しかった。
シンガポールのようになった今の香港には何の魅力も感じない。





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当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。



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